宇多田ヒカル


宇多田ヒカルちゃんが、男の子を出産したそう。

ツイッターでお知らせがあって知ったのだけれど、
何だかジーンときた。


彼女が「automatic」で
日本のミュージックシーンに突如現れた時は
ちょっとした衝撃だった。
私には音楽の専門知識はないので、
コード進行の事も楽器のことも分らないのだけれど、
聴いた瞬間の、あの独特のグルーヴ感。
私の耳を捉えてはなさなかった。
15歳であの曲を作ったということにも驚かされた。

彼女の楽曲は曲も良いけれど、詩もとても素晴らしい。

子供の頃から勉強が好きで、読書家でもあった
という彼女の詩は、どこか文学的で明晰さを
窺い知ることができる。

心の中で、色んなことを思い、

考察している人なんだな、と思った。

彼女はその後数々の記録的なヒット曲を

発表していき、社会現象にまでなったりしたけれど
世間や数字がどうのというよりも、

彼女の歌は波長が合うというか
私にはとても心地が良いものだった。
大分年下であるけれど、彼女の才能、
とりわけ詩の才能に尊敬の念も抱いた。

そしてもうひとつ

彼女の歌に惹かれるのは
宇多田ヒカルには悲しみがあるということだった。
彼女の表現する世界は、
悲しみや切なさや憂いというものがある。

声も、低くてディープで
どこか悲しみを携えている。

私は、憂いや切なさを漂わせている

人や物が好きなので、シンパシーを感じた。

まだ二十歳にもなっていない女の子に悲しみや切なさを感じるのは
何故なんだろう?

理由はいろいろあると思うけれど、

その背景には、

著書「点-ten-」でも触れられているように
生い立ち。育った家庭環境の異質さや、
親子の関係のことも影響もあるだろうか。

何かの対談で、

「夫とテレビを観ていて、この女優さん結構いいのに何か
足りないよねって話になると、すぐに『不幸が足りないんだ
よ』って(笑)。結局それなんですよ。」」と話していた。
多分最初の結婚の頃の話だと思うけれど、
何故だかその話に惹き込まれた。

只、宇多田ヒカル自身、

歌詞にネガティブな言葉を使いたくないと言っているように、

彼女から伝わる悲しみは、切なさは、

決してネガティブなものではないと思う。

私、こんなに苦しいの、分ってくれる?

というような、かまってちゃんのような感情で
表現しているのとも明らかに違う。
独りよがりで歌を作っているようにも、
自分のためだけに歌を作っているようにも思えない。

その悲しみや切なさや憂いの
性質から、
ネガティブなものや、ジメジメしたものを感じないのは、
痛みを伴いながらも、ギリギリとところで踏ん張って、
前へ進もうとしている。
一方でその悲しみを安易にとらえることなく、
切実を感じている。
絶望とそれを乗り越えようとする姿勢から
生まれる希望というか、そういうものを感じる。

決して楽観主義ではないのかもしれない。

けれど、悲しみは悲しみと受け止めながらも、
そこで踏みとどまろうとしない。終わらない、
そういう姿勢のようなもの。

宇多田ヒカル自身にとって、
歌を作ることが自分への精神の安定剤のような、
心のリハビリのような、あるいはカタルシスの要素が
あって、そこから希望を見出すのなら、

聴き手は、

宇多田ヒカルの歌を通して
哀しみや切なさを味わいながらそれに共感し、
その一方で癒されている。

私は、悩みや悲しみがないから

幸福だとは思っていなくて、
痛みや悲しみや苦しみを味わい
乗り越えてきた人にしか会得できない、
優しさや深さや大きさや愛情があるように思う。

だから私にとって、

宇多田ヒカルが奏でる音楽から漂ってくる
哀しみや切なさは決して心地の悪いものでは
ない。彼女の歌にはそういう魂が感じられる。

短絡的な人がメンヘラだとかいったりするかも
しれないけれど、そういう人は、多くのことを
ほんの上澄みでしかみていないような気がする。

宇多田ヒカルの自叙伝には、

生い立ちのこと、親のこと、
お母さんとの関係など正直に綴られていた。
お母さんに愛されたい、でも....。
そんな葛藤も書かれていた。
その葛藤は、少しジョン・レノンと似ている
気がした。

この本を書いた頃はその日を想像していなかった

と思うけれど、お母さんが亡くなるという悲しみが
彼女に訪れた。その想いは他人の私には
計り知ることはできない。

私自身、

宇多田ヒカルをミュージャンとして
好きだということもあるけれど
同時に人としても共鳴し好きだと思うので

そういう悲しみと共に

生きてきた彼女だからこそ、
子供が生まれたという幸せの知らせを聞いて
グッとくるものがあったのだと思う。
それは決して同情論ではないのだけれど。

かつて、ロッキン・オンのインタビューで

「宇多田ヒカルが生まれた時は死産に近かった
蘇生措置を施して生き返った?
そこで何かが変わったのかも?」と語ってた。
母子ともに大変な中
お父さんのマッサージで蘇生して
この世に生まれてきた。

自叙伝では幼少期の
切実な想いが綴られていた。

けれど、

子供を授かったことで、

彼女が生まれてきて感じてきた
様々な宿命的ともいえるような事柄や、
お母さんとのことが、
沢山解決するような気がして、
自分が幸福に満ちた時、
お母さんに、心から
私を産んでくれて有難うと、思えるような
気がしたので、彼女にそんな時が来た
ように思えて、少し涙が出そうになった。


宇多田ヒカルの著書に
「自分の言いたいことをただ言うんじゃなくて、相手の話を聞いて
気持ちを汲んであげようとすることが大切なんじゃないかな。
人の話を素直に、謙虚に、偏見を持たずに聞ける人って、
すごく少ないと思う」と書かれていた。

「有名になって、いたるところを写真に撮られて、
身近な人や友達が売ったとしか思えない写真が
週刊誌に載ったり、マスコミに執拗に追いかけられたりして、
人間としての尊厳を踏みにじられるような気がした。
好奇の目で見られることはとてつもなく怖く、
たくさんのナイフで刺されているような思いだった。
16歳の女の子には耐え難いものだった。
デビューを後悔した」とも書かれていた。

古い話になるけれど、

数年前たけしと伊集院静の対談で、
伊集院氏が、「夏目雅子と噂になった時、あらゆる
非難を浴び悪口を言われた。特に男の目が異常だった。
その時たけしさんがラジオで庇ってくれた。あいつそんな悪い
やつかな、って。世の中誰かいるんだ、糞みそにいう奴ばかり
じゃないんだ、と思った」という話をしていて、

「なんでこいつ生きてるの?って奴ほんとにいるんだよ」
という言葉が凄く耳に残っているんだけれど、

リアルな現実の人間関係は

クリアなものばかりじゃない。
人の心に土足でズカズカと踏み込んでくるような人、
胸元を両手で突き飛ばすような冷酷な人、
およそ信じられないことを言ったりしたりする人が実際に存在する。
純粋に接すれば接するほど、繊細であるほど、
ナイフでずたずたにされるような気持ちになることがある。

宇多田ヒカルとは

会ったことも、話したこともないし
年齢も違うし、住む世界も違う。
恐らく一生会うことも話すこともない。
けれど、例えば亡くなってこの世にいない
はるか遠い国の小説家に、親しみやシ
ンパシーや敬意を抱くことがあるように、
実際会っていなくても共鳴したり
既視感を感じる人はいると思う。
実際会って接しても、駄目な人はいる。

よしもとばななが宇多田ヒカルを
「会ったこと、話したことはないけれど、
この世の中で、私の苦しみがたった
ひとりわかる人がいたら、あの人だと私は思う」
と言っているのも分かる気がした。
多分痛みの種類が同じなのだと思う。

ともあれ、
彼女が、家族と穏やかで愛や優しさに満ちた
幸せな家庭を築けるといいのになと思った。